ましそんのひとりごと

つれづれなるままにひぐらし

Twitterといふもの

私はTwitterを何年も前から愛用している。今ももちろん愛用し続けているのだが、その使用方法および考え方は大きく変遷してきたように思うのでここに綴る。

 

Twitterとの出会い 

Twitterを初めて利用したのは7年前。いわゆる「リアアカ」ではなく、ハンドルネームを使いTwitter上の交流のみを目的とするアカウントでつぶやいていた。ついこのあいだまで知らなかった人と偶然ネットの海の中で知り合い、そこで生まれる会話というのは、スマホを持ったばかりの自分にとって非常に貴重でワクワクするものだった。

しかしはじめた当初はフォロワーもほぼおらず、どう使えばいいのかもさっぱりわからず、機能を持て余していた。「勉強したくない」「風邪ひいた」とかひとりごとを言ってたような気がする。咳をしても一人。 何が楽しいんだよTwitter。そう思っていた。

しばらく経つとフォロワーが少しずつ増え、リプライというもので他者と交流することを覚えた。

そのうち、RT機能を知り、引用RTなどでも会話をするようになった。このころが一番無邪気にTwitterの交流を楽しめていたように思う。

毎日のようにリプライでじゃれあい、引用RTで晒しあい、それが本当に楽しくて、「この場所が本当の私の居場所だ!」とすら思っていた。

 

つぶやくのは自由、つぶやきにどんな感想を抱くもまた自由

Twitterが私になくてはならないものになってからしばらく経った頃、人によってTwitterの利用の仕方が違うことに気づきはじめた。

趣味関連の楽しいことだけつぶやく人。仕事や学業などリアルのことも交えてつぶやく人。日常の愚痴ばかりつぶやく人。

そういうことになんとなく気づきながら、さらっとTLに目を通すくらいでほぼ気に止めず、私は相変わらず何も考えずに思いついたことをつぶやいていた。つぶやきになんの規則性もなかった。ネットリテラシーも低かったので、個人情報を晒すようなこともしていた気がするし、好きなことを好きな時に書く日記帳と同じだと思っていた節がある。

しかし、Twitterはただの日記帳ではないし、ましてやチラシの裏でもない。見ている人がいる。自分のつぶやきを見て何かを感じる人が確かにいるのだ。

 

ある日、あまり話したことのないフォロワーさんから「どうしてそんなひどい言い方をするんですか?」とリプライをもらった。私はどのツイートのことかも、何が彼女の琴線に触れたのかもわからない。そういうことがあった。

なんの気なくつぶやいた言葉が爆笑を攫うこともあれば、決して激しい言葉を使ったツイートでなくとも意に反してセンシティブに反応されてしまうこともある。

つぶやくのも自由なら、そのつぶやきにどんな感想を抱くのも自由だ。

無数にいるTwitterの住人がそれぞれ自我を持ってつぶやいているのだからよくよく考えたら当たり前。
しかし深く考えずに楽しくツイートしていた私にとっては、140文字足らずの言葉で傷つく人がいるという事実は衝撃的なものだった。

そういうことがあってから、思ったことを全てそのままツイッターに書くのはやめた。

はっきり自覚して「こういうツイートをしよう」と心がけているわけではないが、心のどこかで「不用意につぶやいて人を傷つけるくらいなら、誰も不幸せにならない無難なツイートをしよう」とぼんやり思っている節がある。(それもそれで縛りすぎ、気にしすぎかな…と自覚はしている。)

 

Twitterは一種の社会

Twitter、およびSNSは、自分の言葉を自由に発信する場であると共に、発言の場に他者が存在している時点で一種の社会であるとも言える。それも老若男女、国籍問わず、様々な人種のいる複雑な社会。

好き勝手つぶやいていい場所ではあるものの、そこに一定のモラルのようなものは必要だと個人的には思っている。

モラルを持とう、と一口に言っても人によって線引きが違うので、定義をするのは難しいけれど…それでも、使用する人は皆自分なりの理念や倫理観を持って使用すべきなのかな、と思っている。

 

基本的にはSNSは自由であるべき。ツイートのみならず、フォローリムーブご自由に。RTふぁぼもどうぞどうぞ。私の拙いツイートをいつも見てくれてありがとう。

ただ、自分のつぶやきを見ている人が0でない以上、その言葉が他者に与える影響を少なからず考えてツイートするべきかな。私はそう思う。

それが自由につぶやく権利を与えられた我々の義務である、と信じている。

  

以上。