ましそんのひとりごと

つれづれなるままにひぐらし

小説といふもの

私は小説を読むのが好きである。

小説を読んでいると、自分ではない自分を疑似体験できる。様々な場面に遭遇する主人公の心理描写が細やかに描かれ、まさに主人公の中に入り込んだような体験ができるのが小説の醍醐味。

その小説について最近思ったことがある。

 

自分がしていない経験を書くということ

作家と一口に言っても、様々な経歴の作家がいる。 

現役主婦が結婚生活を書いたり、元お笑い芸人がお笑いコンビの話を書いたり、アイドル経験者が芸能界の話を書くことはもちろんできる。体験を元にしたリアルな表現が物語に華を添えることだろう。

しかし、自分のしていない経験を描くとなると、どうだろう。

例えば経験はしたことがないがサッカー選手の物語を書きたい場合、サッカー選手に取材をする必要がある。取材をすればある程度の知識を得ることはできるし、聞いた話を元に心情を表現することも不可能ではないだろう。

それでも、実際に体験していないことを、本当の意味でリアルに描くことは非常に難しい。サッカーのフィールドに立った時の緊張も、仲間との信頼関係も、ゴールを決めた時の喜びも、取材でわからない繊細な部分は想像で補うことしかできない。

 

表現の中のごく小さな違和感

 とある就活に関する小説を読んだ際、最終面接に落ちた主人公とその母親の会話のシーンがあった。それは一見して日本語のおかしいところはないのだが、どこかにほんの少しの違和感が確かにあった。文章というより、最終面接に落ちた主人公のテンションに違和感を覚えたのかもしれない、と思う。

私は実際に最終面接に落ちた経験がある。そのため、自分の経験と照らし合わせつつ、じっくり読み返せば読み返すほど、そのぼんやりした違和感がはっきりと感じられるようになり、その先を読み進めるのが中々難しかった。

あとでその小説の著者について調べてみると、就活の経験がないということが判明した。やっぱりな。思った通りだ。

 

しばらくして別の、就活を題材にした小説を読んだ。その小説は、就活がうまくいかない苦悩から、将来への不安、何者にもなれない宙ぶらりんな状態を実にリアルに表現していた。就活中の自分が書いたのかと思えたほどだ。

作者のあとがきを読むと「実際に就活をし、失敗した経験がある」と書かれていた。やっぱりな。思った通りだ。(2回目)

 

自分がしていない経験をうまく表現できる作家はすごい

 きっと、どんな小説にもフィクションの部分とノンフィクションの部分がある。

作者の想像や他者の経験を借りた部分。そして作者が実際の経験や考えをもとにした部分。それらを融合し、さらりと一つの物語として紡ぐことができるのが腕のある作家なのかなと私は勝手に思っている。

それに、上記の私が感じた違和感も、その経験を実際にしている人にしか感じとれない微小な違和感だとしたら、そんなに問題ないのかもしれない。

まあでもね、「言葉ではうまく説明できない、体験した人にしか絶対わからないこと」ってのは確かにあるんだと思うよ。

 

 

そういう話でした。

ばーい。